山車と踊山

祭礼用神具山車10輌と奉納、民俗芸能用屋台1輌(踊山)は、昭和56年(1981)12月21日光市有形民俗文化財に指定されました。

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 台若~だいは

寸法 高さ
前方 0.94m
後方 1.34m
(松を飾りつけた時の高さは4.6m)
横幅 1.55m
奥行 3.3m
(幟を飾りつけた時の全長は12m)
重量 700kg
品質 木造
(けやき、檜、松)
製作地 地元(光市室積)
製作者 不詳
製作
年代
寛文元年
(1661)
所有 南町
(みなみちょう)
宮ノ脇
(みやのわき)
台若保存会

享保18年(1733)地元の大火により焼失、宝暦7年(1757)復造。

昭和58年(1983)3代目を復造。町内の寄附により木材を購入(約100万円)、町内の船大工が無賃で造った。先代は解体して格納庫へ保管。

台若の勢いは、江戸時代、当時の毛利公にも聞きおよばれ、幟2張を拝領。幟に刺繍された替紋には、「五七桐」、「十六菊」が用いられている。

毛利家では「一文字三つ星」の他に、「沢潟」、「十六菊」、「五七桐」、「丸に矢筈」、「鶴丸」、「八本矢車」、 「菫」など10種近くの家紋を併用していた。 「十六菊」は元就が正親町天皇から、「五七桐」は輝元が足利将軍義昭からそれぞれ賜ったものである。

昭和60年(1985)幟を復造。

太平楽と書かれたこの赤の大幟2張と提灯、生きた黒松、酒樽を飾った台若が山車行列の先陣を切る。

松は古くから神の宿る神聖な木とされており、神を待つ、「祀る(まつる)」「祭り」などの意味も考えられる。

以前の御還幸は専光寺前までであったが、平成18年から、早長八幡宮まで曳かれるようになった。

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 鳥居~とりい

寸法 鳥居
高さ 4.2m
巾 4.65m
台車
縦 1.17m
横 1.16m
猿田彦面
縦 0.75m
横 0.6m
重量 600kg
品質 心木張子貼
製作地 地元(光市室積)
製作者 不詳
製作
年代
元禄年間
(1688~1703)
所有 市場(いちば)

享保18年(1733)地元の大火により焼失、宝暦7年(1757)復造。

現在は横向きに走行しているが、以前、防府天満宮の祭礼参列時は、前向きに走行、路地にさしかかったところでそのまま横向きに走行して、観衆をあっと驚かせた。 前向きにも横向きにも自在に走行できる唯一の山車である。

鳥居本体は、猿田彦面も合わせ8つのパーツから成り、芯柱及び心棒、台車等を含めると、合計16のパーツから構成されている。 祭りが終われば直ぐに解体・分解し格納する。

御旅所で山車が宮の形態に整列する際は、心棒を外して御輿がこの鳥居をくぐる。祭り当日は青葉の柴と竹で飾りつけ清々しさを増す。

猿田彦(さるだひこ)面を納めた木箱には「文政拾一歳(1828) 猿田彦面箱 子、六月吉辰」との表書きがある。※猿田彦は神々の先導役を務める神として、 多くの御神幸祭に登場する。鳥居に猿田彦面が付いていることにつていは、萩市住吉神社の猿田彦面山車との関連性が考えられる。

以前は全ての山車が、毎年祭り前に組み立てられ、祭りが終わると解体して保管されていたが、現在では鳥居以外の山車は、組み立てたまま保管されている。

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 石燈呂~いしどうろ

寸法 長さ 1.58m
巾 1.58m
高さ 4m
重量 500kg
品質 心木張子貼
製作地 地元(光市室積)
製作者 不詳
製作
年代
元禄年間
(1688~1703)
所有 西ノ浜
(にしのはま)

享保18年(1733)地元の大火により焼失、宝暦9年(1759)復造。

毎年白く塗り直し「御神燈」「宝暦九己卯(つちのとう)八月吉祥日」「奉寄進」「願主敬白」と、右回りに筆を入れる。

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 石燈呂~いしどうろ

寸法 長さ 1.58m
巾 1.58m
高さ 4m
重量 500kg
品質 心木張子貼
製作地 地元(光市室積)
製作者 不詳
製作
年代
元禄年間
(1688~1703)
所有 新市(しんいち)

享保18年(1733)地元の大火により焼失、宝暦9年(1759)復造。

毎年白く塗り直し「御神燈」「寶暦九己卯八月吉日」「奉寄進」「願主敬白」と、左回りに筆を入れる。

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 高麗犬~こまいぬ 阿形(あぎょう)

寸法 高麗犬
高さ 0.95m
巾 1.05m
車体
長さ 2.35m
巾 1.39m
高さ 1.74m
重量 500kg
品質 木造
(けやき、檜、松)
製作地 地元(光市室積)
製作者 不詳
製作
年代
元禄年間
(1688~1703)
所有 西江ノ浦
(にしえのうら)

享保18年(1733)地元の大火により焼失、宝暦7年(1757)復造。

昭和37年に高麗犬だけ取り外し、京都に送り補修。車体は現在も当時のまま。車輪は昭和に3回交換し、平成に入り2回交換した。

室積浦地帯は歴史的、地域的に見ても漁業者の集落で、大漁祝い、祭事等は常に盛大に行われてきた。漁業資源の減少、会社勤務、若者の地域外流出等により現在は高齢者世帯が増えたため、女性も交じって山車を曳くようになった。

西江之浦の高麗犬は口を開けている。

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 高麗犬~こまいぬ 吽形(うんぎょう)

寸法 高麗犬
高さ 0.95m
巾 1.05m
車体
長さ 2.35m
巾 1.39m
高さ 1.74m
重量 500kg
品質 木造
(けやき、檜、松)
製作地 地元(光市室積)
製作者 不詳
製作
年代
元禄年間
(1688~1703)
所有 東江之浦
(ひがしえのうら)

享保18年(1733)地元の大火により焼失、宝暦7年(1757)復造。

以降、嘉永年間(1848~1853)と昭和12年(1937)に改修、損傷が著しくなった平成2年に台車を復造。高麗犬は和紙に赤と黒の漆塗り、台車は総けやきの白木造り。守り神として現代にその雄姿を誇っている(先代の台車は全面が赤と黒の漆塗りであった)

曳き回しの掛け声や木遣り唄の節は独特で、代々青壮年に引き継がれ、東江之浦の誇りとして子や孫に継承されている。

東江之浦の高麗犬は口を閉じ、角がある。

※「阿」は口を開いて最初に出す音、「吽」は口を閉じて出す最後の音で、そこから、宇宙の始まりと終わりを表す言葉だと言われている。

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 随神~ずいじん 右大臣

寸法 随神
高さ 0.86m
巾 0.9m
車体
長さ 2.35m
巾 1.39m
高さ 1.74m
重量 700kg
品質 随神 乾漆
車体 木造
(けやき、檜、松)
製作地 地元(光市室積)
製作者 不詳
製作
年代
元禄年間
(1688~1703)
所有 宮町(みやまち)

享保18年(1733)地元の大火により焼失、宝暦7年(1757)復造。

以前はろうそくの転倒等による提灯の焼損もあったが、現在では電気点灯へ変更している。

平成17年(2005)念願の格納庫が完成。「できるだけ軽く動き、軽く止まるように」を心掛けて整備している。


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 随神~ずいじん 左大臣

寸法 随神
高さ 0.86m
巾 0.9m
車体
長さ 2.35m
巾 1.39m
高さ 1.74m
重量 700kg
品質 随神 乾漆
車体 木造
(けやき、檜、松)
製作地 地元(光市室積)
製作者 不詳
製作
年代
元禄年間
(1688~1703)
所有 向町
(むかいちょう)

享保18年(1733)地元の大火により焼失、宝暦7年(1757)復造。

赤の束帯姿で、弓を携え剣を帯びている。

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 御鏡山~かがみやま

寸法
直径 0.5m
車体
長さ 2.35m
巾 1.39m
高さ 1.74m
重量 700kg
品質 鏡 真鍮製(現在はステンレス製)
車体 木造
(けやき、檜、松)
製作地 地元(光市室積)
製作者 不詳
製作
年代
寛文元年
(1661)
所有 山根町
(やまねちょう)

享保18年(1733)地元の大火により焼失、宝暦7年(1757)復造。

以前は御神幸のみ参列していたが、平成19年からは御還幸にも参列するようになった。

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 曳舟~ひきふね

寸法 長さ 5.7m
巾 1.4m
高さ 3.1m
重量 650kg
品質 木造
(けやき、檜、松)
製作地 地元(光市室積)
製作者 不詳
製作
年代
寛文元年
(1661)
所有 北町(きたまち)

享保18年(1733)地元の大火により焼失、宝暦7年(1757)復造。

平成12年(2000)曳舟新造実行委員会を立ち上げ、平成14年(2002)3代目を復造。先代は「光ふるさと郷土館」に展示中。

曳舟は別名「お供船」とも呼ばれ、山車行列の後尾に供奉(ぐぶ)している。

※長崎県五島市椛島神社例祭は、室積から移住した幸吉丸の船主により伝えられたとされ、「宝来丸」という曳舟型の山車を木遣りを唄いながら曳き回すそうである。 室積西ノ庄にも蓬莱山があることなど興味深い。>>椛島神社例祭

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 踊山~おどりやま

寸法 長さ 7.28m
巾 2.55m
高さ 3.97m
重量 2,000kg
品質 木造
(けやき、檜、松)
製作地 地元(光市室積)
製作者 不詳
製作
年代
寛政三年
(1791)以前
所有 光市室積山車保存会

屋台上で民俗芸能が奉納され、舞踊を行ったことからこう呼ばれている。

「江之浦山」(江之浦・西ノ浜、元は北町の「北山」)と「南山」(南町)の2輌があり追い山で競い合ったが、「江之浦山」は老朽化の為、昭和43年(1968)解体。 現在は南山のみ残っている。

この南山も長年の使用による傷みが激しく、平成15年(2003)刺繍幕を新調(先代の見返り幕は北山のものを使用していた)、平成17年(2005)に車輪、 18年に太鼓の皮の張り替え、19年に車軸と桁、そして平成24年(2012)屋台の大修繕を施した。初代から引き継がれている額には「壽南山」とあり、 破風の部分には毛利家の替紋である「五七桐」、「十六菊」が用いられている。

 

藩政時代毛利氏は早長八幡宮に対して年々社領1石を裁許、秋季例祭には、県下でも唯一の華やかな出し物だった「踊山」に対して、藩予備銀の中から 80文銭300匁を、同じく6月の恵美須祭りにも60匁を供進されるのを例とした。※当時、銀(80文銭)300匁は金5両に相当。

  

踊山の製作年は不明であるが、踊山に取り付けられている鐘には
「寛政三亥年/八月吉祥日/年寄/庄●衛門」
「防州/室積浦/南町/踊山」
「當番/中屋惣兵衛/鉄●喜平次/礒屋太九衛門」
とあり、寛政三亥年(1791)以前に制作されたものとみられる。

 

山車は、江戸前期に誕生。宝暦年間(1751~1763)毛利重就の時代、宮ノ脇(撫育局が設けられて宮ノ崎を改称)に御旅所が設けられ、御神幸のあと先に曳きまわされた。 後に踊山が作られ、屋台上で舞興行が行われるようになった。

当時南町北町界隈は所謂海商銀座・遊女街として隆盛期にあり、祭りもひときわ盛大に、かつ華やかに行われたと伝えられている。

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